ロゼッタはひどく苦労する。やっと10代後半になったばかりで、彼女は、高速道路沿いのキャンプ場にある、吹きさらしのトレーラーに無断で住みついている。一緒にいるのは、アルコール依存症の母親だけで、彼女は毎朝、普通の世界との超人的な戦いを始めるために起きだす。食べて、体を洗い、仕事を見つけなければならない。すべての行為は厄介になり、すべては荒々しくなる。ロゼッタは絶望的なエネルギーに支えられている。それは、すべての希望が無くなったかのように見える時、溺れた人が抗い続けるエネルギーと同じものである。
広大な湿地と荒れ地からなる黙示録的なベルギーで、ロゼッタは自分にできることにしがみつく。工場での仕事、古着を使った商売、ゆで卵などである。彼女を必要としていない世界の中で、彼女の努力は悲痛なものとなる。ダルデンヌ兄弟が彼女に望んだのはこのようなことであった。「私たちは、カフカの『城』(1926年)の登場人物Kのことを考えていました。Kは城にたどり着くことができず、村では受け入れられず、自分は本当に存在しているのかと自問します。このことから、私たちは疎外された1人の少女、社会に戻るために必要な何かを手に入れることを望んでおり、つねに再び社会の外に出されてしまう少女というアイデアを得ました。」
もっとも悲しい人生ではそうであるように、映画は脚本に基づいているというよりも、むしろ一連の状況に基づいている。そこで支配的なのは、敵対的な環境の中で生き延びようとする意思である。動作の反復性は、ロゼッタに課された歩みの重苦しさを表している。ダルデンヌ兄弟は何度も、彼女がトレーラーに帰るために、靴を脱いで長靴を履くところを撮影する。思考が、完全につまらない動作を中心にして形成されるとしたら、文字どおり、どのようにして未来に自分を投影するのだろうか?つねに繰り返される惨めな現在、貧しい国における、ある種の不必要で周期的な混乱があるだけである。
ダルデンヌ兄弟は『ロゼッタ』でカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞した。手持ちカメラを使って、彼らは、存在をかけた毎日の戦いの中にあるエミリー・デュケンヌを最も近くから追った。彼女はこの役で主演女優賞を得た。
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)