この進化の最高潮にあるのは、もちろん、彼が先導者の1人であったドグマ95であり、『イディオッツ』である。しかし、この映画的禁欲主義への回帰は、彼の過去の手法を否認するものではなく、1つの必要な進化にすぎない。
1995年5月13日、コペンハーゲンで、ラース・フォン・トリアーは、友人である3人の映画作家とともに、ドグマ95を作り上げた。それは、ある種の「映画的貞潔の誓い」であった。ドグマ95は、20年代のアバンギャルド理論からインスピレーションを得ており、作為的な映画と戦うための、10の厳しい規則からなる。監督は、すべての審美的・主題的な野心から自由になって、ごまかしなしに現実を再現しなければならない。
ラース・フォン・トリアーは、この挑戦の中で、すべてをコントロールするという抑えきれない願望を忘れさることに成功する。この変革によって、彼は、ヒロインが愛のために自分を犠牲にするという童話に着想を得た三部作を成功させることができた。完璧なフレーミングによるショットは姿を消し、ラース・フォン・トリアーは、手持ちのカメラによる自然のままの撮影を優先する。それは感情を、よりありのままに捉えるためであった。三部作は、ドグマ95の前に制作されたドレイヤー風の宗教的メロドラマ(『奇跡の海』−1996年)、リアリズムの映画(『イディオッツ』)、そして、前2作の集大成となるミュージカル・メロドラマ(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』−2000年)からなる。
イディオッツは、ドキュメンタリー映画の手法で撮影された。映像は本能的で譲歩はない。俳優は絶えず動き続けるカメラで撮影され、映像にはまったく手が加えられていない(音についても同じである)。映画は現実と直結しているのである。
『イディオッツ』は、資本主義社会の周辺で生き、彼らが呼ぶところの「内なるイディオット(白痴)」を解き放つことを決めた個人の集団を生き生きと描写する。彼らは、自分たちの庭、あるいは公共の場所で精神病患者のようにふるまうことで日々を過ごす。子供を失ったばかりの女性が、この「イディオット」たちと出会い、彼らとともに日々を過ごすことを決意していく。彼女の視点から、観客は実際にこの集団の世界を深く理解することができる。
「イディオット」たちの行動は複雑である。資本主義というシステムに対する辛辣な批判であり、社会がその上に成り立っている規範を乱すという試みであり、個々の幸福を考え出すという意思でもある。新たな参加者によって投げかけられる数々の疑問が表れてくる。精神病患者をまねることは可能なのだろうか?進歩しつつあり無秩序な行為のある共同体で、どのように共存すればいいのか?
『イディオッツ』は社会的規範と決別することの難しさを表している。この映画には、叫び声もスキャンダルもないが、断絶は非常に暴力的なものである。なぜなら、個人が他の人間になろうとすることは、つまり、根底からの自分自身になろうと試みることで、家族や社会によって教育された、自らの一部を失うことだからである。人間性の喪失はもはや社会の症状ではなく、社会への抵抗のしるしなのである。
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)