2008年09月19日

『トーク・トゥー・ハー』(スペイン映画、ペドロ・アルモドバル監督、110分、2002年)

40代の作家マルコと若い看護師のベニグノは隣り合って座るが、まだお互いを知らない。ピナ・バウシュのカフェ・ミュラーという公演を観に行ったときのことである。のちに、ベニグノはこの公演のことを、昏睡状態の若くて美しい女性、アリシアに話して聞かせる。彼は何年も前から彼女の看護を担当していて、彼女に恋していた。
マルコはといえば、プロの闘牛士であるリディアという女性と付き合い始めるが、彼女はやむを得ずマルコをベニグノに引き合わせることになり、強く複雑であいまいな友情が生まれる。
 この友情こそ、ペドロ・アルモドバルが2つの興味深いテーマを浮かび上がらせながら、私たちに物語るものである。それは、孤独と解毒剤としての言葉である。
登場人物は全員が孤独の犠牲者である。昏睡によって世界から切り離された女性たち、脇の登場人物、闘牛場の中心にひとりぼっちでいる牛、そして女性たちに見捨てられた男性たち。こうして、深い傷跡を持つ運命が交錯する。
この傷跡が、彼らを致命的な孤独と向き合わせる。なぜなら、私たちの存在の証しは他者の中に存在するからである。他者の視線が私たちに形を与え、その不在は私たちの衰えを引き起こすのである。そのことをベニグノは、知性によってではなく、純真な魂だけが到達できる、心からのプラグマティズムのおかげで理解するのである。そして、彼はこの理解を、知識人であるマルコと分かち合う。この方法によって、二人の男性は存在することができ、二人の女性は生き延びるのである。
この言葉というテーマは、本質的な力を持つ武器として描かれている。言葉は傷つけ、解放し、なだめ、破壊する。どちらにせよ、言葉はベニグノがするように使われるべきなのである。つまり、最大限の誠意をもってということである。そうでなければ、言葉は破滅を引き起こす。たとえ聞かれているのかどうか、さだかでないとしても話すことを学ばなければならない。
アルモドバルの映画は常により良いものになり続けている。
この映画作家は最も得意とするところに専念している。それは、彼が愛する登場人物たちを創造し、彼が才能と情熱をもって語る物語に登場させることである。数年前には彼の特徴であったバロック様式と過激さは、今日では洗練されたスタイルに場所を譲ったが、形式的な大胆さと物語に完全に同化したスケールの大きな独創を忘れてはいない。
アルモドバルの主題は、その破壊的な特徴を強めている。なぜなら極端さは少しずつ消えて、かわりに、より信憑性のあるトーンが表れているからである。

ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)
posted by Pierre at 01:11| 京都 ☔| Comment(0) | ヨーロッパ映画研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。