もう1つの着想の源として、信じがたい人物であるクラウス・キンスキーによって生き生きと描写された登場人物については、アフリカの指導者ティト・オケロ(1914−1986)である。彼は、1979年、血なまぐさいイディ・アミン・ダダ将軍を失脚させた。1985年〜86年に、彼はウガンダでオボテ大統領に対するクーデターに参加し、6ヶ月後に今度は彼が権力の座を追われるまで、国を支配した。
撮影中のクラウス・キンスキーとヴェルナー・ヘルツォークの関係は、『アギーレ、神の怒り』が彼らの初めての共同作業であったにも関わらず、荒れておりまた情熱的なものであった。この状況は、続く共同の仕事において次第に顕著になりながら、『フィツカラルド』(1982)という企ての時に頂点に達した。実際、クラウス・キンスキーがあまりに不快な態度をとったため、映画のために雇われたインディオの部族の人々は、監督に対して、この俳優を殺すよう提案したほどであった。この闘争的な関係は、監督による『キンスキー、我が最愛の敵』(1999)の中ではっきりと詳細に語られている。
大部分の場面はすでに撮影済みで、撮影チームの人々は、この仕事の状況により肉体的に大変な苦労をさせられていたにも関わらず、キンスキーは、ある日『アギーレ』の役を演じることをやめると脅した。ヘルツォークは、もし撮影を投げだすならば殺すと俳優をリボルバーで脅して、銃口を向けた。これは、映画作家が、もしかしたら行くところまで行ったかもしれないと、数年後に認めた事件のいきさつである。俳優はといえば、明らかに監督の言葉を弱めようとして、監督はただピストルを振り回しただけで、脅すような様子ではなかったと述べた。
『アギーレ、神の怒り』は、非常に低予算で(36万ドル)、しばしば危険なやり方で撮影された。時には山の斜面の小道で、撮影チームは最低限の安全で撮影を行った。作品はすべてペルーの壮大な自然の中で、しかも盗まれた一台のカメラによって行われた。『アギーレ』の撮影チームは現地で450人のエキストラを雇い、その内の270人は村人であったが、映画作家は400匹以上の猿を鍵となる場面のために買った。 ヴェルナー・ヘルツォークは、一度も自作のためにストーリーボードを作らなかった。すべての場面はその場で即興により撮影された。キャストは、これが唯一の役柄であるセシリア・リヴェーラのように、大半は経験のない俳優であり、また、ヘルツォークの友人であるブラジルの俳優・映画監督のルイ・グエッラが参加した。
ヴェルナー・ヘルツォークがこの伝説的な映画作品を撮影する前、どのような精神状態にあったかを理解するためには、彼がある日発言したことを参照するだけで十分である。「『アギーレ』を撮影するまで、私はペルーに行ったことがなかった。私はそのロケーションと、雰囲気を細かく想像していた。それは非常に興味深かった。すべてが、まったく私の想像したとおりであった。ロケーションには選択の余地はなかった。ロケーションは私の想像に屈するしかなく、わたしの思考に従うしかなかった。それが起こったことだった。風景は私の呼びかけに答えたのだ。」
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原 万友美)