「名前のない男が街に到着して、すぐさま死ぬほど殴られる。これが叙事詩的なドラマの始まりである:映画あるいは夢というべきかもしれないが、そこでは、孤独な心が空のポケットをかかえ、我らの神がまします天空のもと、さまようのである…あるいは鳥たちの天空というべきかもしれない。」これは、カウリスマキによって書かれた、『過去のない男』のプロダクションノートの初めの部分である。
この作品は一見明快であるが、分析してみると形而上学的な点が明らかになる。カウリスマキは天空について語っているが、彼にとっては、宗教的あるいは神秘的な映画を作るということは考えられないことである。一見したところ『過去のない男』は記憶喪失者の物語である。しかし、主人公が激しく殴られる時、それは形式的な描写ではない。彼は実際に死んで、医者が死亡を宣告するのである。次の場面で、彼は不意に目覚めるが、私たちには何も示されない。復活かあるいは再生か?私たちは、言外の意味とすぐに否定される手がかりについて論争しなければならないだろう。カウリスマキは非常に独自のジャンルの神秘主義者である。ある種、無神論の神秘主義者なのである。彼は、前もってすべての宗教的言説を破壊するだけでなく、自分の「夢」を辛辣な社会の状況の中に、根を下ろさせるのである。それは追放された人々の世界、コンテナの中で暮らすという境遇に追いやられた人々の世界である。
色は、『過去のない男』の中で重要な役割を果たしている。色彩は追放された人々の世界(色を塗ったバラック、鮮明な色のシャツ、派手なジュークボックス)を支配している。完全に灰色の背景であっても、壁にはいつも赤い正方形がある。赤は普通、危険や死に結びつくが、ここでは生命と希望の色である。カメラマンのティモ・サルミネンによって構成された細心の映像は、北欧の特殊な光、終わらない光の中で、冷たく現実的な色彩に恵まれている。ほとんどの場合、室内は薄暗く惨めである。カウリスマキは文字通り50年代のハリウッド映画を思い出させる色彩に夢中のようである。彼の作品では、色彩は全く現実的ではない。
現代の映画の主人公は今や、自分の記憶にさいなまれる。物語の中をさまよい、常に同じところに戻る。時に疎ましい思い出が立ち現われて、彼を悩ませることがあるとしても、現実は、彼にとって常に手つかずのものである。『過去のない男』では、頭に傷を負った主人公は過去を失う。彼は、小さく貧しい共同体に入り、そこで愛に出会う。警察が彼を発見し、彼自身の人生に戻した時、彼は元妻を覚えておらず、自分の社会的環境に戻ることを望まない。そして、他人が語る、自分自身の前の人格に驚くのである。彼は違う人間になり、自分の過去が彼を悩ませるのである。記憶喪失は、前進し、勝ち取るための力であり、自分自身を再発見するために与えられた可能性である。未来はこの過去のない男のものである。
カウリスマキの映画はほとんどすべて、経済的に貧しく運命に打ちのめされた人々、しかし、模範的な誠実さと誇りに力を得た人々について語っている。苦しみと制約を超えて、登場人物たちは、つねに、連帯、同情、率直さといった本質的な価値の精神を持ち続けることに成功している。『過去のない男』のおかしみは、Mが乗り越えなければならない試練の平凡さと、彼がそのために計るすべての計略との対比によって生まれている。カウリスマキは、初めは最も小さく突飛なディティールを、滑稽な物語に変化させることができるのである(例:笑いを誘う強盗事件に続く、銀行口座の開設)。
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)