2009年02月21日

『叫びとささやき』(スウェーデン映画、イングマール・ベルイマン監督、90分、1972年)

『叫びとささやき』の中では、すべてが的確で、痛ましく、心から離れない。シークエンスは次々と続き、私たちにトラウマのように、あるいは真実を表すからこそ、どんなに過酷であっても忘れることのできないイメージのように刻み込まれる。
病気の苦悩、弱さや苦しみを知っている者は、最初の場面の冷酷な的確さに驚かされる。アグネスが目覚めると、彼女の顔に、まるで苦しみが彼女の思い出を覆うように、少しずつコントラストがつけられる。わずかの間、和らげられ、遠ざかり、そして追い払うことのできない明白さのように少しずつ広がるというものである。このショットは信じられないほど強烈であり、ベルイマンがいつも用いる暗示の手法がふんだんに使われている。彼は、苦しみを見せるよりも、恐ろしいまでの巧みさで、感じさせるのである。
振子時計のチクタクという音が聞こえ、時間は、初めから痛ましく流れ去る。一秒一秒が弱まる息づかいであり、ひとつひとつの言葉は奇妙な反響をともなう。その言葉を発するのはこれが最後かもしれないからである。そして同様に、話し、思い出し、冷静になることのできる休息の時がある。
この映画の中では、すべてが特別の響きを持っている。残り少なくなる時間に対する感覚は、『叫びとささやき』との間に多くの共通点を持つ『沈黙』(1963)の中でも、すでに目立っている(閉じられた空間、床についた病人、死が近づいていること)。
ハリエット・アンデションは強い印象を与える。彼女は、不安定な小康状態を巧みに感じさせ、息がひゅうひゅうと音を立てたり、恐ろしい痛みに叫びをあげたりする時、彼女は、耐えがたい、激しい苦しみの中にあり、とても痛ましい。
『叫びとささやき』は、常に不安な圧迫感の中にあり、非常に心を乱される。壁は血のように鮮烈な赤色の壁紙をはられているため、病気と長い臨終を忘れることはできない。フラッシュバックによって、この閉じこめられた空間を離れる時でさえ、一息つくことはできない。フラッシュバックは情け容赦なく、3人の姉妹を激しい日差しのもとに現れさせるのである。
こうして、慰めになったかもしれないアグネスの少女時代の思い出は、彼女のメランコリーと、母親の冷たい距離を思い起こさせる。リヴ・ウルマン演ずるアグエスの妹マリアは、穏やかな美しい様子をしているが、彼女の昔の恋人が、優しさを装った仮面の下の、冷酷さ、臆面のない態度、無関心を露わにしたときの、つらい事件を思い出す。彼女もまた、より狡猾なやり方で、アグネスのそばにいることを最も耐えがたく感じており、逃げ出すこと、共通の臆病な態度の中に隠れることを望んでいる。
イングリッド・チューリン演ずる、姉カーリンの冷淡さは、混乱した複雑な性質を隠している。私たちが彼女の過去を訪れるとき、彼女は極端に厳格な夫の前で自傷行為をする。彼女は、臨終の苦しみにあまり近づかずに受け入れ、そっけなく、優しさを欠いた態度で、実際的な細々とした事柄を取り仕切る。
召使のアンナだけが、病人を腕に抱き、温かい抱擁を与えることによって、わずかな慰めをもたらす。この単純で動物的な接触だけが、最も大きな苦しみを一時、和らげることができる。アンナは病人を胸に抱きしめ、キスをする。しかし、アンナは、すべてを満たす苦しみから逃れることはできず、彼女の思いやりや優しさ、献身に対して、敬意を払われることも一切なく、それどころか軽蔑される。
苦しみは、常に影のように、すべての場面に付きまとう。死ですらもアグネスを解放しない。アンナの夢を使って、犠牲者は怯える姉妹たちに触れようとする。病人が亡くなった直後に、牧師の恐ろしい祈りの場面がある。牧師は、神が病人のために見つけた尊厳、つまり、病人が、臨終によって抱いた疑いや、深刻な精神的危機について告白する前に、かくも大きな苦しみを恩恵として与えたこと、思い出させるのである。
 マリアは、油断できない優しさによって、すべてにおいて頑固な姉を味方にすることに成功する。しかし、喪の悲しみのショックが過ぎ去ると、性格は元のとおりになる。マリアの優しさは、良心の見せかけにすぎず、カーリンは、錯乱の時には、あえて抱いていた優しさを、押し殺さざるを得ない。
 『叫びとささやき』では、苦しみと死は過ぎ去る。この危機によって、精神は明らかにされ、かき乱され、露わにされる。それは、快適さや見せかけ、再び始まる生活においては習慣的な偽善に逃げ込む前の、人々の本当の心理についての唯一の自白剤である。イングマール・ベルイマンだけが、これほど並はずれた、悲痛な同一化を引き起こし、私たちを、自らの私生活とその秘密に陥れ、私たちを自らの臆病さ、内奥の性質に向き合わせ、これほど的確に、私たちの暗部を探ることができるのである。

ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原 万友美)
posted by Pierre at 00:50| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヨーロッパ映画研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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