都市の貧困についての写真集を準備している。彼は、自分の技術に
よって現実をとらえる事ができると信じている。ある午後、モデル達に
飽きた彼は、気分転換のためにマリオン・パークに出かけ、隠し撮りをする。
何枚か、ひと気のない自然の美しい写真を撮ったあと、彼は、レンズの
フレーム内に、ひと組のカップルをとらえる。
女性が彼に気づき、近づいて来てネガを渡すよう神経質に要求する。
それどころか奪い取ろうとさえする。しかし、トーマスは、フィルムには、
まず現像しなければいけない仕事の写真も入っているからと拒絶する。
ネガを調べるに従って、彼は、知らずに殺人を撮影してしまい、同時に、
邪魔な目撃者になってしまったことに気づく…。
2ヶ月で書きあげられ、ロンドンで1966年4月から8月にかけて6週間で撮影され、
1ヶ月で編集が行われたミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』は、
1967年5月、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞する。この脚本を
書くにあたって、アントニオーニは、アルゼンチンの著名な小説家で、
定期的に幻想文学に接近するフリオ・コルタサル(1914〜1984)の小説に
着想を得て、デヴィッド・ヘミングス演ずるカメラマンだけを残した。
この作品は、アントニオーニがイタリア国外で撮った初めての映画であった。
原題の“Blow-Up”の意味の豊富さは、題名の元になった自動詞にすでに
含まれている。〈to blow up〉には、「破裂する」、「爆発する」、「膨らむ」、
「写真を引き伸ばす」さらには、「お説教する、叱責する」などの意味がある。
この語源の豊かさが、映画の深い力強さを参照させる。
トーマスがある種の息苦しさを感じながら生きている、はかなく絶望的な世界は、
写真の現像と引き伸ばしに続いて爆発する。彼は、鏡を通じて外見の向こう側に
行き、彼がまさしく殺人を撮影したのだという確証を得る。その時から、彼は
見てはならないものを見、目撃者となってはならない事柄の目撃者になったこと
をも理解する。しかし、彼の証人になりたいという欲求は、一方では自分自身の
恐怖に(彼のアパートが荒らされる。彼が目撃者であることは知られている)、
もう一方では友人や知人の奇妙な無関心に遭遇する。有名な最後の模倣の場面で、
彼は物語の初めに出会ったグループに再び出会う。そして、この最後の場面は、
啓示の感覚をもたらすのである。現実は表現の中に消滅する。このような表現が
あるグループに興味を抱かせるならば、それは存在する。そうでなければ、その
表現は何も参照させないのである。『欲望』は1967年のイギリス社会に対する
絶対的な倫理的批評として見ることができる。トーマスは孤独で社会の周辺にいる。
彼は脅かされ、おびえ、自分自身の世界の非人間性を恐れている証人を体現している。
この映画は、現代社会を特徴づける奥深い孤独というものを、心のうちで叱責している。
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)