『鏡』では、アリョーシャという存在にとって主要な登場人物や事件は、混乱した記憶の洪水の中で現れる。若く美しい彼の母は、祖父の家の前で待っている。父は家族のもとを去り、日暮れ時に読まれる詩の中で存在し続ける。子供は激しい嵐と、つづいて隣家の納屋の火事に出会う、などである。
30年後、アリョーシャは母に電話をかける。彼は数日前から病気である。昔の父のように、かれも妻のナタリアと息子のイグナートから気持が離れている。
個人的な記憶は心によみがえるが、主な歴史的事件は記録フィルムの形で復活する。スペイン戦争、第二次世界大戦末期のベルリン陥落、紛争後のモスクワでの祝勝会などである。アリョーシャは、どのように銃の扱い方を学んだのか、1937年に印刷所で働いていた彼の母が、公文書の誤植を見逃したと思い、どのようにパニックに陥ったかを再び見るのである。
『鏡』のテーマは、記憶のイメージに結びついた感情である。タルコフスキーは映画をとらえがたい記憶というものの素材、そして自らの記憶の素材をもとに構成した。彼はそのことを隠してはいない。「2つの世代の運命は、現実と記憶の出会いによって交錯する。映画の中で詩が聞こえる父の記憶と私自身の記憶である。映画の中の家は私たちの家の正確な再現で、もとの家の跡地に建設された。その点ではドキュメンタリーであるといえるだろう。戦争中のニュース映像の数々や、父から母にあてた何通ものラブレターなどは、私の人生の歴史を形成する資料である。」
監督はまた、自身の個人的な記憶の中に、ロシア国民の集団の記憶を組み入れる。記憶を想起する過程は、この視点の多様性の上に成り立っている。集団の記憶は、つねに、語り手の個人的な歩みから始まり、動き始める。アリョーシャの子供時代の光景は、白黒の戦争に関する資料映像によって区切られ、彼の妻の映像は、スペイン戦争についての衝撃的な短い資料映像によって活力を与えられている。映画作家は、ロシア国民全体の苦しみを、自らの傷ついた意識に付け加えている。
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)