ミヒャエル・ハネケの映画について、その強烈な内容についてのみコメントするとしたら容易なことだろう。たとえ、この作品では、最後の部分で映画に衝撃を与える、呆然とさせるような電気ショックにもかかわらず、暴力ははっきりと現れることなく、潜在的であるとしてもである。『隠された記憶』は物語と視覚の原則を内包しており、安全から離れてしまうことによって試される世界では、残酷さは画面外からやってくる。
暴力には名前がなく、監督は、それを、楽しげであいまいなエピローグの中に置かないようによく気をつけている。危険はどこでもないところからやってくる。入口の扉の後ろから、夕食のときに語られる単なる冗談から、そして私たちを取り巻く世界からやってくる。ハネケは特徴的な冷静さをもって、ダニエル・オトゥイユ(主人公ジョルジュ)とジュリエット・ビノシュ演ずるスターの夫婦を通じて、小宇宙的社会を詳細に検討する。そこでは、危険は常にあるもので、攻撃的で耐えがたいニュースを私たちに浴びせかけるテレビによって強められており、秘密の、歴史(アルジェリア戦争)に結びついた傷跡は40年たって再び開く。映像理論家であり、社会の客観的な分析家であるこのオーストリアの映画作家は、いつも歴史を物語に結びつける。 その方法は視覚的で知覚的であり、たとえば『ファニーゲーム』では、家族の変動をナチスの強制収容所の恐怖に結びつけた。ここではイラク、アフガニスタンについてであるが、その根底に隠された陥穽のようにあるのは、1961年10月に、200人の〈アルジェリアのフランス人〉をモーリス・パポン率いる警官隊が溺死させたということである。彼らは、子供や孫たちが数十年たってからもその責任に取りつかれる亡霊なのだろうか?子供の時、ジョルジュが同じ部屋に住んでいた、アルジェリア人少年の両親に降りかかった悲劇の責任を負うのは誰なのだろうか?
ジョルジュの家を正面から映した長時間にわたるビデオテープの送り主は誰だろうか?道の往来や家族の行き来する様を撮影したカメラはどこにあるのだろうか?誰かが、名前も要求もなしにジョルジュにだけ荷物を送ったのは、彼を恨んでのことだろうか?時に血まみれの絵が添えられているこれらテープの謎めいた送り主は何を得ようと望んでいるのか?これらの疑問は、警察が介入を拒否したことにより、恐怖を一層煽り立てる。こうした問いに満ちていながら、『隠された記憶』は最終的に観客に何ら答えを与えない。この映画の中心となるのは別の部分であり、演出の隙間にあるのである。
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)