2009年11月13日

『ユリシーズの瞳』(ギリシャ映画、テオ・アンゲロプロス監督、169分、1995年)

映画が、極端に大文字で始まるHistoire(歴史)に言及する時、明らかに、表現の誇張と退屈な仰々しさに足を取られる可能性がある。この理由で、テオ・アンゲロプロスの代表作『ユリシーズの瞳』という映画の筋書きは、1つの典型的な例である。
これは、映画作家Aの物語であり、彼は祖国ギリシャに戻り、バルカン半島を歩きまわろうと試みる。もちろん観光客としてではなく、様々な意味での探索のためである。まずは、映画の記憶を探し出すためである。それは、20世紀初めの、バルカン半島出身のドキュメンタリー映画作家、マナキス兄弟の失われた映画である。彼らは日常生活を記録するために国から国へと駆け回った。ついでに、映画作家は失われた時を求めて、昔の恋とヨーロッパ人としての自らのルーツを探しに行く。
それに伴って、登場人物の心と同様に引き裂かれた大陸のレントゲン写真が、常にスクリーンに映し出される。とくに描かれるのは、バルカン半島での共産主義の失敗であり、その結果90年代初めの旧ユーゴスラヴィアでは、独裁と民族紛争に陥り、セルヴィアのファシズムはボスニア人の虐殺を引き起こした。
アンゲロプロスの虚構が、これら脚本上の要素を単調に展開するだけであったとしたら、これほどまでに心を動かすものではなかっただろう。ところが、『ユリシーズの瞳』は何よりもまず、偉大な思索の映画であり、すでにある思想についての映画ではないからである。これは、荘厳な美しさの物悲しい道筋をたどって動いている1つの心性の物語である。
ホメロスの『オデュッセイア』とユリシーズの伝説に戻り、アンゲロプロスは、人間の冒険と同様、彼の歴史や神との関わりに対する考察を展開する。
 彼は、昔からの要素を積み重ねることにより、物語に神話としての性格を与えている。ドナウ川、破壊された偶像、現代の廃墟などである。彼の映画は壮大な展望である。彼の作品の長さとその道程の地理的な紆余曲折は、現代の叙事詩を構成するという計画を示している。
 Aは、失われたリールの中に何を探すのか?それは人類の歴史に対する原初の無垢な視点である。まるでユリシーズのように、彼のまなざしはすべての人間の冒険を担うことができる。

ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)
posted by Pierre at 12:04| 奈良 ☁| Comment(0) | ヨーロッパ映画研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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