2010年03月18日

『パリ、テキサス』(フランス・ドイツ合作、ヴィム・ヴェンダース監督、145分、1984年)

映画の最初のショットからすでに、私たちは映画の起源に回帰したという深い印象を受ける。カメラ視点による空間の探究から、1人の登場人物と原型に近い1つのフィクションが同時に生まれる。それは、親子の関係と家族の(再)構成を通じたアイデンティティの探究というものである。最初から、ライ・クーダーの音楽が私たちを物語の中に導く。ブルース、ロック、カントリーの結合から生まれた典型的なアメリカの音楽である。
 トラヴィスは、どこでもないところから突然現れ、どこでもないところに向かうように思える。彼は、最後には夜の奥深くに入って、未知の行き先に向かうことになる。西部劇の主人公のことを思い出さずにはいられないだろう。つまり、西部劇への参照は自然で避けられないものである。なぜなら、明らかなことは、ヴェンダースがアメリカ映画に対して感じる魅惑が、彼を元の場所、したがって映画の神話が不意に出現する環境に戻らせるからである。
 しかし、ヴィム・ヴェンダースの企ては、この映画の最初の状態への回帰のみではあるまい。映画の題名そのものも、隠喩的にヨーロッパとアメリカの関係を参照させる。逸話的な説明によれば、妻がテキサス州パリの出身であるトラヴィスの父を指し示す。ヨーロッパ人が新世界に対して感じる魅力は、アメリカ人がかつて根を下ろしていた旧大陸に対して感じる魅力と対をなす。 それによって、映画の2つの軸が出会う。空間と親子の関係(トラヴィスは、父の話では、そこで自分が母に宿されたというテキサス州パリに土地を買う)。トラヴィスの道のりは、アメリカ映画の変遷(無声からトーキーへ)に対応する。つまり、開かれた無限の空間から、ガラスや仕切り、扉によって閉じられ、境界を定められた空間への道のりである。物語は冒険を背景に始まり、ピープ・ショウのボックスの寂寞とした内省に変質する。
『パリ、テキサス』が私たちに見せてくれるのは、映画の役割そのものである。それは、すべてのカテゴリーと、絶対的他者を消しさるすべての体系を越えて、あるがままの現実を知覚する可能性である。トラヴィスは、ヴェンダース映画の他のすべての主人公と同じく、世界を、自分が組み込まれた、1つの調和した体系としてではなく、瞬間とイメージ、そして、彼が恵まれた観客となって、自らは不在のまま発見し始めるスペクタクルの連続として理解している。そこから、ヴェンダースの登場人物たちの不透明さが生じる。彼らはお互いに不可避的に無関係であり、媒介を通じてしか知りあえない。それは、ものまね、トランシーバーやテープレコーダーを使うことなどである(これらはすべてトラヴィスと息子との関係においてである)。同様に、トラヴィスと子供の母親ジェーンとの関係においても、多くの例をあげることができるだろう。

ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)
posted by Pierre at 01:30| 奈良 ☀| Comment(0) | ヨーロッパ映画研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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