自分の人生に意味を与えるために、ロリータはシルヴィア・ミエ(アニエス・ジャウイ)のもとで歌のレッスンを受ける。数人の同僚とともにコンサートを行うためであった。シルヴィアが、ロリータが崇拝するカサールの娘であると知った時、彼女の生徒に対する興味は増大する。やはり文学の分野に進みたいと思っている夫ピエール(ロラン・グレヴィル)とともに、シルヴィアはカサール一家と親密になる…。
全体の雰囲気、生き生きとした会話、俳優の演技などから、ジャウイ‐バクリの作品であることがすぐに分かる。多くの様式的な面、また主題などから、私たちはこの成功した二人三脚の続きを見ることになる。『キッチンでの出来事』(1993)、『家族の気分』(1996)、『ムッシュ・カステラの恋』(2000)に続く、『みんな誰かの愛しい人』は、俳優の演技に見られる、たぐい稀な自然さ、表面的な輝きが日常生活の急襲に耐えられない、生ける屍の世界への外科的な侵入、苦境に陥って出口を見いだせずに堂々巡りする、笑うべき操り人形の行き来である…。
今までの作品と同じく、本作も本質的に悲観的である。ほとんどすべての登場人物は、自分の取るに足りない、内的な星まわりに囚われており、他人とは、敵意、自省、嘲笑、偽善を通じてしかコミュニケーションを取らない。そして逆説的に、観客は、この操り人形のワルツに自分を重ね合わせて何度も(しばしば苦笑いであるが)笑う。監督の中にはやたらに殺す怪物たちを描くことを専門にしている人がいるが、ジャウイ‐バクリのコンビは、打ちのめすような即答の専門家に、そして、絶望した登場人物のおかげで、頬の筋肉を刺激する技術の名人になった。
『ムッシュ・カステラの恋』ですでに明らかだった変化が、より明確になっている。私たちは、毎週、郊外のカフェで集まっていた家族の小さな輪を離れ、象徴性が発展した、より複雑な心理的世界に浸る。ここでは、もはや機知に富む言葉だけが人形劇の目的ではない。
個人的な苦悩に巧みに降下しており、そのため、ロリータの傷ついた人物像は正しい節度をもって素描され、心を打つような成功を収めている。彼女を取り巻く人間も皆、心理的な行き詰まりと、焼灼されない苦悩によって身動きできなくなっている。映画の最後の場面で、一条の希望の光がさすとしたら、ラシッド=セバスチャン(カイン・ボーヒーザ)という登場人物によるものだろう。彼は、静止した原子の銀河の中における自由電子なのである。
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)