1967年に、タチは大規模で夢想的な企画に自らの才能をすべて傾けるが、公開された当時は、まったく受け入れられず、理解されなかった。同時に彼の芸術的な信用と金銭面の重要性を失わせることとなった。「プレイタイム」(1967)は、今では満場一致で賞賛されるが、この喜劇映画の巨匠のフィルモグラフィの中できわめて重要な作品であり、奇抜で個性的な映画である。
『ぼくの伯父さん』から10年近くを経て、非常に現代的なパリの迷路の中で道に迷ったユロ氏がまた戻って来た。亡霊のような、カフカ的な首都の中での、ユロ氏の迷宮のような道ゆきには、多かれ少なかれ失敗に終わる数々の出会いがちりばめられている。生気のない、非常に勤勉な管理職、かつての軍隊仲間、いらいらした出張販売員、没個性の巨大なビルに夢中になるアメリカ人旅行者などである。これらの素晴らしい人々は、最後に、高級レストランであるロワイヤル・ガーデンの盛大なオープンの夜、再会するが、豪華さは見かけだけのものである。そして、洪水のように次々と起こる災難…そしてギャグ。
タチのすべての作品においてまさしく中心となる、この登場人物は、この作品においては、物語の道しるべに留まっている。映画を通じて、ユロ氏は、タチによるモダニズムの人間味のない世界に姿を現すが、物語の筋立ては一切明らかにならない。ユロ氏は、単調なパリを〈訪れて〉、一連のギャグに遭遇する。『プレイタイム』は、すでに1967年から現れ始めた大量消費社会に対する非常に批判的な視線が認められる喜劇である。
目的に達するためにタチがとった手法は巧みである。彼はまったく単調な街を描く。そこでは、すべての建物が同じで、アパートも完全に似通っており、ホテルは空港のようである…。ある旅行代理店で、旅行者たちは、様々な行先を広告するポスターの前で夢中になる。ニューヨーク、ロンドン…。しかし、すべてのポスターには同じ建物が写っている。
ジャック・タチが描いて見せる世界は、完全に画一化されている。映画の中で、パリであると知ることができるのは、ガラスやドアに映り込んだいくつかの建造物のおかげである。こうして、かつてのパリは、ほのめかされるだけである。映画の中のパリは、自由主義の拡大に立ち向かうことなく、侵略されるにまかせたのだ。
ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)