2009年07月16日

『エイプリル』(イタリア映画、ナンニ・モレッティ監督、78分、1998年)

1976年以来、ナンニ・モレッティは、彼が「1つの小説の10章」とみなす10の長編映画を監督した。
35年近くの間に、モレッティが語ったイタリア史では、親しい仲間が彼を公的な事柄から引き離し、皮肉と自己嘲弄が誠実で妥協のない世界を描写している。その世界とは、すべてが、ノイローゼのナンニ(1994年の『親愛なる日記』)、政治的なナンニ(1989年の『赤いシュート』、2006年の『Le Caïman(カイマン)』)、一家の父親であるナンニ(『エイプリル』、2001年の『息子の部屋』)などの周りに形成されたものであり、彼もそのことを言明している。「自分から出発して、私は他の人々について語ることができたようだ。」この自己愛的で自立的な映画では、それこそがモレッティの逆の技法であり、他の人々がひしめいている。友人たち、教師の両親、兄、パートナーなどは始めからモレッティの大家族を構成している。
『エイプリル』は、ザッピングの、不規則な、ヒップホップのフラクタルを取り入れている。この映画は、かろうじて進展し、疑いや批判、立ち往生、後退、急な進路変更、省略などによって運ばれる。
『親愛なる日記』(1994)の小説の後で、この作品は、日にちやページの偶然にしたがって、なぐり書きされたメモ帳であり、直感や思考のままに乱雑に書かれ、抹消された下書きノートである。予測不可能で壊れたように見えるが、『エイプリル』は、理解するには明快な映画である。
1つ目の理由は、明らかにモレッティ本人の人柄と滑稽な身体、いつものユーモラスな機知による。『エイプリル』はどの方向にも進むことができ、止まることも、回り道をすることもできる。モレッティの身体は、ブイのように、常に重心をなし、遍在する固定点であり、すべての自由を可能にする構造化の中心である。
2つ目の理由は、非常に単純でしかも確かな、映画の隠された構造による。『エイプリル』の見た目の無秩序は、3本の赤い糸によって秩序立てられている。それは、モレッティの息子の誕生、イタリアの国民議会選挙、監督の映画の企画である。
こうして、再び『親愛なる日記』の3つのモチーフが見られる。モレッティの3つのおもな興味の中心である、私的な領域、社会的・政治的領域、その2つの間にある映画の領域である。この作品では、この3枚のカードで代わる代わる切るのではなく、モレッティはそれらを常に混ぜ合わせる。3つの領域は、お互いにしっかりとはめ込まれている。

ピエール・シルヴェストリ
(訳:梅原万友美)
posted by Pierre at 16:33| 京都 ☁| Comment(0) | ヨーロッパ映画研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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